読了目安:7〜8分 / テーマ:努力の結晶を“記録”するための撮影
記録としての撮影が始まった日
必要に迫られた最初のシャッター
人間関係のざわめきに疲れ果てていた頃、ボクは「記録」という言葉の重みを知った。誰かに撮ってもらうたび、そこには小さなズレや摩擦が生まれた。スケジュール、理解度、技術、距離感。楽しみたいだけなのに、乗り越えるべき壁が次から次へと増えていく。
ある日、そのすべてが面倒になった。だったら自分が作ったものくらい、自分の手で残せばいい。そう思った瞬間、撮影は“選択肢”ではなく“手段”に変わった。
必要に迫られて始めた一眼レフは、やがてボクの生活の中心に静かに入り込んでいった。
造形物を残すという行為
努力の重さを画面に定着させる
布を選び、縫い、塗り、貼り合わせ、何度も手を汚す。造形物は、時間のかたまりだ。手順をひとつ抜けば成立しないし、ひとつの失敗で作り直しにもなる。
その重さは、写真にしなければ消えてしまう。形に残るようでいて、案外すぐ風化する。光の当たり方ひとつで表情が変わり、保管の仕方で色も質感も変わってしまう。
だから撮る。その日、その瞬間、その努力の状態を閉じ込めるために。写真は、造形物の“健康診断書”のようなものだと思っている。曖昧な記憶に頼らず、確かな証拠として未来に渡すための記録だ。
記録を自分の手に取り戻す
自撮りという選択がくれた自由
自撮りをするとき、まず意識するのはピントだ。どこを主役にするか、どこまで背景を許すか。小物に一度ピントを合わせてから、自分がその位置へ入る。ボケも含めて、全部計算してからカウントダウンを始める。
思い描いた記録に最も近づけるのは、他でもない自分だ。失敗しても誰の機嫌も取らずに済むし、うまくいくまで何度でも繰り返せる。孤独は静かな空気としてそばにいるだけで、その存在が撮影の邪魔になることはない。
記録の主導権を取り戻すとは、自由を取り戻すことだった。
SNSではなく、自分のための保存庫
“残す”と“公開する”の線引き
SNSは便利だけれど、そこに評価を求めたことはない。見るだけで誹謗中傷を楽しむ人もいる。だから、理解してもらう必要はない場所だと割り切っている。
それでも投稿するときがあるのは、スタジオや同行者への感謝、そして近しい人たちへの報告のためだ。公開するかどうかは、許可の有無、他者の映り込み、そしてデジタルタトゥーとして残していいかどうかの三つだけ。本当に大切な写真にはウォーターマークを仕込む。
SNSはただの出入り口で、保存すべき写真はすべて自分の内側に積み上がっていく。
記録し続けて、ボク自身が変わったこと
外見と生活習慣にも写るもの
撮ることが増えると、自分の見た目や健康に自然と目が向くようになった。肌の調子、体型、清潔さ。カメラは誤魔化せないぶん、日常の雑さも残してしまう。
だから整える。写真に写る自分を信じられるように、生活そのものを少しずつ修正していく。その積み重ねが、見た目の若さや、誰にも年齢を当てられない手応えにつながっていった。
写真は造形物だけでなく、自分自身の変化まで記録する。意図せずして、そんな副産物まで生まれていた。
そして、「撮る」という行為の意味
残すために、今日もシャッターを押す
撮るというのは、ただの動作ではない。完成した造形物が「ここにあった」という証明であり、作った時間に対する礼儀でもある。
ボクにとって撮影は儀式ではないけれど、手放す前の最後のひと呼吸を閉じ込める通過点のようなものだ。
今日もまた、努力の結晶を記録するためにシャッターを押す。光に触れた造形物が、そっと画面に定着するその瞬間が、ボクの活動の続きを照らしてくれる。
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Notes
- * 用語解説(ピント・ボケ・デジタルタトゥーなど、後でリンク追加想定)